串間市

串間市

史跡

櫛間城跡 (大字西方字上ノ城・西林院・見廻木・下新城)

 

 櫛間城は、建武2年(1335)、野辺盛忠(後の第2代地頭)による築城とされ、秋月種長が元和の一国一城令(1615)により廃止するまでの280年間、城主の変遷を見ながら当地方の政治・軍事の拠点となった。その城域は、現在の西林院や森林組合背後の台地を北辺として、南は串間警察署周辺までで、自然の地形を活用しながらシラス台地を巧みに成形して築城されている。野辺盛忠が手掛けたのはおそらく字上ノ城にあたる部分で、字名が残るように下新城あたりは後世の拡張によるものと思われる。ちなみに足利義昭事件により野辺盛仁が櫛間城を去った後、当城の主となったと思われる人物を列記しておくと、伊作久逸、島津忠廉・忠朝・忠広・忠親、薬丸孤雲、島津久治などがあげられる。

下弓田遺跡(大字南方字狐塚)

下弓田遺跡は、志布志湾にそそぐ福島川左岸の河口近くにある縄文後期の遺跡である。昭和34年(1959年)、宮崎県教育委員会が発掘調査したところ、竪穴住居が3軒発見され、多数の土器片や石器が出土している。

 土器にはすべて二枚貝や巻貝などを使って模様がつけられていることや立地を考えると生産活動の中で漁撈活動が一つの中心であったことが想定される。

福島町古墳(3号・4号・5号・9号・10号)(大字西方桑ノ木・西郡元・上小路・小路)

 

 古墳は3世紀末より7世紀末に至る間に、その地方を支配していた豪族の墓である。

 福島町古墳としては、昭和8年に19基が県の指定を受けていたが、その後破損して現在は次の5基が形あるものとして残されている。

  

  ◯3号古墳(長清見塚)  円墳        墳上は共同墓地になっている。

  ◯4号古墳(剣城塚)    前方後円墳   墳上には戊辰の役戦没者の墓がある。

  ◯5号古墳(毘沙門塚)  前方後円墳   墳上に毘沙門天を祭る。

  ◯9号古墳(霧島塚)    円墳        墳上に霧島権現を祭る。

  ◯10号古墳(万多城塚) 前方後円墳   墳上は共同墓地となっている。

 

 指定外ではあるが古墳の中には、台湾高砂族の祭具であるガラスの練玉が出土した銭亀塚

また、場所が明確でないが文政年間に穀壁が出土した王之山古墳など学術的価値の高いものもあった。

本城村古墳(1号~7号)(大字崎田・永田)

 本城村古墳は、崎田の鬼ヶ城古墳(1号~6号古墳)と永田にある7号古墳からなり、5世紀後半から6世紀にかけての古墳である。

 地形のうえから、貿易に関した豪族の墳墓と思われている。

  

  ◯1号古墳(円墳)

 崎田江切の潮入を見おろす高台にあり、横穴式石室を有する円墳である。

 昭和のはじめ頃までは、石室の内部は暗く、灯火を用いて立って歩かれたという。

 現在は、蓋石2個と石組みだけが残っている。

  

  ◯2号~6号古墳(円墳)

 竪穴式石室で、1号古墳よりやや離れた南高台の松崎にあり、土地の人はここを城ノ上と呼んでいる。

  

  ◯7号古墳(円墳)

 本城永田地区にあるが現在その明確な場所を探すことは難しくなっている。

 この墳上にある堂内に「けんこう様」と呼ばれる五輪塔があり「腫物、いぼ、あざ、ほくろ」などにご利益があるというので、古くから人々に親しまれ、ご縁日などにはお参りが絶えない。

 

※「けんこう様」という名称の由来については、吉田兼好説、検校説、肝付氏(兼の名前が多い)説などあるが、確かなものはない。

市木村古墳(4号・5号)(大字市木蛭田・中福良・古都)

 市木村古墳は、中福良の市木神社前に4号古墳(蛭田古墳)、古都の水田内に5号古墳(本宮古墳)があり、もとは円墳であったと思われるが、現在は形がはっきりしていない。

 市木地区では、これまで多くの箱式石棺が発見されたが、その一つに昭和35年(1960年)、藤地区のミカン畑の石棺2基の中より頭椎太刀が発見された。

 この太刀は、現在、旧吉松家住宅内に展示、保管している。

西林院(秋月氏の墓)

 慶長元年(1596年)、秋月種長による建立。西林院は櫛間城跡の城域内最北部に位置する。境内には安土桃山時代から江戸時代初期にかけての秋月氏ゆかりの墓標がある。

 秋月氏は、筑前・筑後・豊前36万石を有したが、豊臣秀吉の九州侵攻に敗れて、財部(高鍋)・串間3万石に配置換えされる。

 この時、領主の秋月種長は財部に入り、串間には父の秋月種実が入って、金谷城を居城としたとされる。

 2度の朝鮮出兵から帰国した種長は櫛間城に移って、慶長9年(1604年)までを過ごしており、この間に上町(櫛間城の城下町)や金谷の城下町建設に着手するなどしている。

教育委員会事務局 生涯学習課