◯五輪塔群(12基)
古くはコの字形に配置されていた。
五輪塔群の中の1基には、大正6年(1578年)の銘があるが、2基はさらに古く、室町時代のものといわれる。
また、新納是久の墓といわれるものがある。室町時代、都於郡に拠る伊東氏に対し、島津氏は飫肥城に新納忠続を、櫛間城に伊作久逸を配して備えた。
ところが、忠続と久逸はたがいに勢力を争うようになり、文明17年(1485年)久逸は伊東氏と手を組んで飫肥城を攻めたが守り堅く、かえって戦いに敗れる。
新納是久は、飫肥城主の忠続の弟であるにもかかわらず、久逸の子が自分の女婿であるという関係もあってか、兄忠続に反抗し、この戦いで飫肥河原に討ち死にしたという。
後年の安政2年(1855年)島津氏はこの墓をあずねあて、近くの百姓吉兵衛という者に墓石の管理を、また、極楽寺には折々の供養を依頼したとの記録がある。
五輪塔群の傍らに、同じ安政2年造立の六十六部供養塔があり、その台石に記された村方世話人の中に吉兵衛の名があるのがおもしろい。
◯木造不道動明王立像
この木造不動明王立像は、当寺の本尊である。高さ60cm。
室町時代の作ではないかといわれており、悪魔降伏がその本願である。
◯鰐口
鰐口とは、神殿や仏殿の前の軒先などにつるす中空扁円で下方が横長にさけている銅製の具。
その前に布などで編んだ太い緒を垂れ、参詣の人がその緒の下の部分を持って打ちならすもの。
ここの鰐口は、幾度かの火災のためか、「とって(軒につるす部分)」の片方が破損しているのがおかしい。
製作年代は不明であるが、少なくとも近世以前のものであろう。
◯石造不動明王立像
永徳寺境内の岩肌に浮き彫りにされた高さ120cmほどの像である。
水をかけると姿がはっきりと浮かび出てくる。
刀匠三条小鍛冶宗近は、天元2年(979年)罪を得て西薩摩に流され、のち櫛間の羽ヶ瀬に移り住んだといわれ、
この不動明王立像は彼が己を擬して刀の尖で刻んだものと伝えられている。
傍の立石は妻に擬したもの、前の泉水は鍛工用の水とされ、どんな晴天にも涸れることはないと言われている。
宗近は、その後許されて帰京し、天下の名工と称えられた。
◯木造薬師如来立像
像は樟材の一本造り。高さ163.5cmの等身大仏像で全身漆箔を施したもので、両足先を江戸時代に補ったほか、本体には後世の補修も少ない。
両耳が大きく、耳たぶが外に張っており、衣類のあつかいも古い様式で一見平安後期11~12世紀頃の古像のようであるが、それには一種の写しくずれが認められ、面長な相好を考えあわせると平安時代の古像を鎌倉時代になって忠実に模して造られたものであろう。
製作年代の古さ、像の大きさ共にこの地方では他に比べるものがない。
◯木造如意輪観音坐像
高さ28.9cm、像の中心部は平安後期の制作と考えられ、江戸時代になってこれに両手と膝を補足し、漆箔を施し、完全な姿にしたもので
非常に精巧な仕上げである。おそらく京都あたりから近世になって渡ってきたものと考えられる。
◯誕生釈迦仏像(2体)
鉄造で高さ10cm余りの小さい仏像である。製作年代は明らかでないが、すくなくとも中世以前のものである。
教育委員会事務局 生涯学習課