ある日の取材でこんなことがありました。
都井岬での出来事でした。
朝から撮影を行なっていました。
すると、同行をお願いした地元の方が小さな洞穴を指してこう言うのです。
「これが防空壕だよ」
「これが見張り台のあったところ。海から来る外国の飛行機を監視していたんだ。」
教科書でしか見たことのないものが目の前に現れるとは思いませんでした。74年前の出来事なんて大昔のことだと考えていましたが、実際に今もなお抜け殻のうように存在することは私にとって衝撃的なことでした。
南国には素敵な歴史しかないものだと思っていたし、そもそも、今も昔も大きくて青い空と海があって、風が心地よく吹いているものだと思っていました。だけど、田舎だからこそ当時の記憶が残っていることも。
私が住む都井地区大納の集落に当時を語ってくれる人がいました。
大迫サエ子さん(通称:サエ子ばぁ) 御年85歳
笑いシワの多いサエ子ばぁですが、昔は苦難を乗り越える日々を送ったそうです。
「靴なんてものはなかったから、
じいちゃんが作ってくれたわら草履を履いていたよ。
防空壕はいろんなところにあって、
空襲警報が鳴るたびに壕に駆け込んだ。
先生が厳しい人で、
警報が鳴っても遊んでいるとよく怒られた。
小学生だったから、みんな遊びたい盛りだったよ。
遊ぶとお腹が減る。
けど、米はなかった。イモしかなかった。
手のひらに乗るイモを2つばかりでお腹が膨れるわけもなく、
木の実を食べても足りない。
ひもじかった。
ひもじかったから、畑に出た。
すると、海から鉄砲の音が響いて、
打たれそうになったこともあった。
大納の被害は少なかった。
でも怖かった。
終わったのは、小学校5年生の時。
海の向こうから米兵が来た。
米兵が3人、土足で学校に入って来た。
わら草履は脱いで教室に入らないといけないのにね。
『日の丸はないか?』と訪ねてきたから
『ない』と答えた。
日の丸はみんな持って行かれた。
もっといっぱい持って行かれるんじゃないかと思って
いろんなものを隠した。
若い頃には苦労した。
ひもじかった。ひもじかったねぇ。」
海を見ることが、恐ろしいと思う時代があったということを知らない私は、今見ているこの姿がこのままここにあってくれればいいと願うばかりです。
[SpecialThanks!!]大迫サエ子さん
総合政策課